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2016.04.14

「1人称の死」と「2人称の死」の関係性

「死」を通して家族の絆を考えてみる

 
死の問題を考えるとき、フランスの哲学者であるウラジミール・ジャンケレヴィッチの「死の人称」がよく引用されます。
ジャンケレヴィッチは、死を文法範疇の人称を使って三つに区分しました。
「1人称の死」は(私)自分の死、「2人称の死」は(あなた)近親者の死、そして「3人称の死」は(それ以外)他人の死です。
日々、マスコミで信じられないような凶悪な殺人事件や海外でのテロ事件などが報道されますが、これは私たちに直接関係のない「3人称の死」です。

 

1人称の死と2人称の死は重なり合う

ジャンケレヴィッチは、著書「死」の中で次のように述べています。
「父あるいは母の死は、ほとんど われわれの死であり ある意味では実際にわれわれ自身の死だ」(仲沢紀雄訳「死」みみず書房)。
すなわち、「1人称の死」は自分の存在にかかわる悲劇的な出来事です。
しかし、「2人称の死」=最愛の人の死、これも「1人称の死」=自分自身の死と同じくらいに私たちに大きな影響を与える重要な出来事なのです。
そして1人称の死と2人称の死は、重なり合っているのです。
 

2人称の死は、過去、現在、未来を失うこと

アメリカのユダヤ教の聖職者であるグロルマンも「2人称の死」の重要性を次のように述べています。
「愛児を失うと、親は人生の希望を奪われる/配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき現在を失う/親が亡くなると、人は過去を失う」(日野原重明監訳・松田敬一訳「愛する人を亡くした時」春秋社)。
2人称である親、配偶者、愛児を失うことは、1人称の自分自身にとっても人生の過去、現在、未来を失うのと同じだと言うのです。
 

儒教は生命の連続を説く

西洋思想に対して、東洋思想を見てみましょう。
中国おける儒教の経典「礼記」では、『身は父母の遺体なり』(加地伸行「沈黙の宗教 儒教」筑摩書房)と述べられています。
「遺体」という言葉は、「死体」という意味ではありません。
親が遺(のこ)した体、すなわち私たち自身の体を遺体と言うのです。
ですから儒教は、親から子どもへと『生命の連続』を説いているわけです。
 

「1・5人称」の関係性が大切です

避けられない死という現実を通して、1人称(私)と2人称(あなた)との関係性やコミュニケーションが大切です。
人間という言葉が「人の間」と書くように1人称(私)と2人称(あなた)との間「1・5人称」の関係性が大切ではないのでしょうか。
そして「1・5人称」の関係性の根底には、「2人称」(あなた=親)の「死」あとに「1人称」(私=子ども)の「生」があるという世代を超えた生命の連続があるのです。
親は、自分の「死」を意識することによって、子どもの将来を考える。
子どもは、親の「死」を意識することによって親に対する感謝の気持ちがもてるのでしょう。

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